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稲荷を訪ねて北へ  (2021年12月12日加筆更新)

稲荷を訪ねて北へ

稲荷を訪ねる旅、工程図

 これは東北の稲荷を訪ねた旅の記録です。2021/10/15~11/3の20日間、車で4000kmになりました。走行距離20万kmのポンコツにベットをしつらえて、道の駅などで車中泊する旅です。まず東京湾を渡り千葉県から太平洋側を北上し、青森県で折り返し日本海側を南下、新潟、長野、群馬、埼玉と13県ほどの稲荷の痕跡を訪ねる旅でした。右図の青色経路です。

 そんな大変な旅に出かけることになった、その理由を案内しておきます。

 稲荷とは「稲荷神」で、伊勢の外宮に祀られている豊受大神のことです。別名も多く宇迦之御魂(うかのみたま)、倉稲魂(うかのみたま)とも記されています。魏志倭人伝では、倭国の初代女王・卑弥呼の跡を継いだ、13歳の少女・台与(とよ)となっています。第2代の女王です。

 旅の画像とコメントは、次のリンクでご覧いただけます。

 豊受大神(台与)は須佐之男命と大山津見神の娘・神大市比売の間に生まれた娘で、出雲の安来市宇賀荘(うかしょう)町が生まれ里と思われます。下図は豊受大神誕生までの系譜です。

 安来の人達は、神の心を持った少女王の誕生に、誇りの意味で生まれ里の「うかのみたま」と言ったと考えます。そんな少女が何故、稲荷神となったのでしょう。そもそも稲の荷と書いてどうして、「イナリ」と読むのか疑問が生まれます。稲置、稲生が変化した説を見ますが、いきなり納得できる説ではありません。どのように生きたか追ってみました。 

 13歳の少女、台与が倭国王に抜擢された理由は、248年頃、卑弥呼(天照大御神)が亡くなって倭国が乱れたためで、これを収束するため二年後の250年ごろ擁立されたと思われます。九州の人達も、出雲の人達も納得できる倭国王台与の選出だったのです。又この先、倭国の都を大和に遷す夢を実現するための人選でもあったと思われます。大宰府天満宮に残る国宝の漢書・翰苑(かんえん)には台与について次のように記しています。

「臺与幼歯方諧衆望 (台与は幼くして、まさに衆望にかなう)」

 幼いながらも、民の要望によく応えていたことが分かります。台与が素晴らしい娘に育ったには、祖母・和久産巣日神(わくむすひの神)の影響があったと考えます。この名には和を久しく導く、日神を産んだ神の意味があるのでしょう。天照大神を産んだ際は、高木産巣日神と神産巣日神が名付けられています。

 和久産巣日神は、伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みという名の開拓に同行し、四国徳島にやってきていた火の加具土(かぐつち)神と埴山姫の間に生まれた娘で、伊邪那岐・伊邪那美の子である須佐之男命(すさのおのみこと)とは幼馴染だったと思われます。そんな中、熊野で伊邪那美命が火の事故で突然亡くなり、火の加具土神は火の責任をとらされ、伊邪那岐命に斬られてしまいました。

 加具土神の名には、土に火を加え道具にする神、あるいは土を加工し道具にする神の意味が込められているのでしょう。焼き物の神ということになり、伊邪那美命が与えた名と考えます。(加筆・2021/12/12)

 和久産巣日神の母・埴山姫は、その名の通り土器に通じていたのでしょう。夫・加具土神の死を乗り越えて伊邪那美命の死を悼み、いまも阿波や吉備の遺跡から多く見つかる分銅型土製品(右図)を造ることにしました。銀杏の葉を二つ合わせたデザインで、一方の銀杏葉には女性の顔の図柄があります。亡くなった伊邪那美命に模したもので、二つの葉を合わせた部分で割れて見つかります。その割れた破断面は二つと同じものは無く、伊邪那美命との絆を表したと考えます。当時の人達に人気となって、阿波や吉備に広まり遺物として残ったのでしょう。

 兄弟の中で一人、母・伊邪那美命の死に遭遇した須佐之男命は、泣き虫のまま成長し父・伊邪那岐命から国を出るよう指示されます。そこで須佐之男命は、父母が国生み事業でやり残した出雲の開拓に向かいました。大蛇(おろち)退治という名の洪水対策などを進め安来を本拠地として出雲国を建てます。この出雲開拓には、天照大御神より須佐之男命を推す、奴国王だった神産巣日神も同行するなど、幼馴染の和久産巣日神も須佐之男命を慕って出雲に向かっています。結局、和久産巣日神は須佐之男命に添うことはできませんでしたが、子の神大市比売を嫁がせて豊受大神が誕生したのです。

 天照大御神の後継問題で国が乱れると、和久産巣日神は孫娘を連れて九州の高天原に向かい、出雲からの王選出を提起したのでしょう。国生み時代を生き抜いてきた和久産巣日神の国を思う心には、説得力がありました。父・加具土神が無実の罪で伊邪那岐命に殺害されたことを、高天原の神々は知っていてその償いの意味もあったかもしれません。また13歳の少女・台与は和久産巣日神から先祖に感謝する心や、国を思う心が受け継がれている賢い少女だったこともあり、高天原の神々の心を動かしたのでしょう。国の運命を左右する人選でした。

 出雲からの2代目倭国王選出で、出雲の大国主命も「国譲り」に同意せざるを得ませんでした。台与は高天原で様々なことを勉強し、さらに素晴らしい女性に成長していきます。

 東征への出発は寅(とら)年で、大和での神武の即位が酉(とり)年の1月1日と記しているので、その間、7年をかけた東征だったことが分かります。台与による晋への最後の遣使とされる266年の後に出発したとすると、上記の干支から270~276年の東征が導き出されます。台与、33歳での東征決断だったのです。13歳で女王となってから20年が過ぎていました。

 神武東征と日本武尊東征については、大磯町国府の鷹取山と秦野市の高取山をきっかけに、この二つの山の対で進攻方向が記録されていることが分かりました。(上図は神奈川県内拡大、右図は全国の図) 奈良より西が神武東征、東は日本武尊の東征の記録でした。神武東征では、さらに神武兄弟に振り当てたと思われる山名で部隊毎の経路が記録されていました。神武自身の経路は権現山の名で記録されています。これらの記録が真実であるかどうか、考古学的な遺跡の出土物によって検証してきました。

 例えば集落跡から偶然出土する破鏡は、戦闘部隊と思われる高城山の経路から見つかっています。破鏡は出征に際し、いつ帰るかわからない我が子に一枚の銅鏡を数枚に割り、家族が分け持ったものです。集落で見つかる破鏡は首から下げられるよう穿孔したり、端面がナイフ状に加工されて見つかります。親は亡くなると破鏡とともに埋葬し子が帰還したときに、親の墓であることの証としたのです。全国で600を超える破鏡が見つかっていますが、まだ二つの破鏡が合致したことがないと言います。

 左図は久米の人達が主体の戦闘部隊の経路を示す高城山経路と、集落出土の破鏡の分布です。よく一致していると思います。あわただしい移動で忘れたり、戦闘などで紛失してしまったのでしょう。画像解析技術が進み、いつか二つの鏡の再会する日があることを待ちたいと思います。

 その後、東日本でも破鏡が見つかる原因が、東征後に東国移住作戦があった仮説となっていきました。

 上記のような東征部隊の移動経路を検証するには、出土した弥生終末期の土器が有力情報となりました。この東征隊の移動では食料・武器の運搬のみならず、毎日の寝るところと食事の準備が課題となります。寝るところは主に竪穴式住居なので、容易に解体して運ぶことができます。食事の煮炊きの甕(かめ)も、移動時に持ち運ぶことになります。ところが土器は破損しやすいので、移動先で破損すると移動元で製作した土器が移動先の遺跡に残ります。移動先で新しく補充した土器が、伝令により移動元に持ち帰り移動元に残ることもあります。宮崎や鹿児島では帰還兵が持ち帰ったと思われる、大和の庄内式土器や東海の土器の影響を受けた土器が見つかります。多くの発掘報告書から土器の移動状況が、同名の山で記録された経路と一致し、神武東征がおこなわれ、奈良に大和王権が誕生し古墳時代が始まったことが立証されました。詳細は未発表です。

 

では東征の補給部隊を指揮した、豊受大神はどのような足跡だったのでしょう。図の左は九州の高倉山による二つの対を結んだものです。朝倉市の麻底良(まてら)山と薩摩半島の高屋ケ尾山を意識しているように見えます。

 朝倉の高天原を出発した豊受大神は、出発に先立ち二つの山を訪ね遷都の報告と東征の加護を祈り、天照大御神と邇邇芸命の御霊(みたま)を背負って旅だったと考えました。 本州に渡っても高倉山の経路が記録されていて、宇陀の高倉山で終わっています。その経路は、二人の御霊が戦乱に巻き込まれないよう、細心の注意が払われているように見えます。戦乱の河内を避けて淡路に迂回しています。神武が大和入りする直前の、宇陀の高倉山で豊受大神は、御霊を神武に預けるとともに、大王の位を神武に移譲したのでしょう。

 

 左図は九州島内の、各部隊の東征出発の動きを山に記録していたものです。下関海峡を多くの部隊が渡った記録になっています。

 東征隊の多くは北部九州の人達で、構成されていたことが分かります。天草からも朝倉に集合した後、北九州に進んでいます。

 高尾山隊のみ瀬戸内海を進み、他の部隊は出雲に向かっていることが分かります。高城山隊の経路が南阿蘇から始まっているのは、倭国と敵対していた狗奴国と、決着の戦いを行って出発したことが分かります。宮崎の西都から宇佐に、真北のベクトルがあるのは、記紀が記す、日向からの神武の出発です。

 世界の歴史でも建国のための部隊毎の移動経路が山に記録されたものはないと思います。素晴らしい記録です。

 下関海峡を渡った東征の多くの部隊は、鳥取の青谷上寺地での戦いに備えて出雲に向かったのでしょう。補給部隊を指揮する豊受大神も出雲に進み、生まれ里の安来の海岸に沿う、小高い山峰に補給基地を建設しています。豊受大神が幼いころに遊んだ山々に、塩津丘陵遺跡群などとして発掘されています。豊受大神はここを補給基地とするだけでなく、戦いの中で亡くなった人を弔うための墳墓も準備しました。四隅突出型墳丘墓です。墳丘上は台状になっていて、一度に複数の土坑を掘り埋めることができます。その後も吉備での双方中円墳や、讃岐でも前方後円墳などの試作検討が進められています。弥生終末期に豊受大神による様々な、弥生墳丘墓築造があって、次の古墳時代が始まったことが分かります。

 話は戻りますが豊受大神はその後、出雲から稲荷山を用いて経路を記録したように見えます。(左図) 神武が熊野越えで奈良に入る計画を進めると、その後を追い熊野の山も越えた記録になっています。最後は伏見稲荷のある稲荷山です。13歳の少女が何故、稲荷の神となったのか少し見えてきました。

 東征のさなかの出雲半島の稲荷山から稲荷が始まっていることから、 稲置、稲生が変化 したものでないことは確かです。「稲の荷」は豊作をイメージすることができ、「イネニ」でなく「イナニ」でもなく、「イナリ」と読むことで豊作を願う心を表したと考えます。豊受大神の造語と思われます。東征の最中のこの造語が、遷都だけが目的でないことを示しています。この大事業の意味を表現する言葉として、たちまち人々の心をとらえたのでしょう。

 左図は全国の稲荷地名を拾ってみた図です。西日本より東日本に多いことが分かります。それも太平洋側、関東に多いように見えます。破鏡の出土状況から東国開拓の移住作戦があった仮説を先に建てました。

 そしてこの図から、神武の大和での即位後、身軽となった豊受大神が東国での移住作戦を指揮・支援するための、大いなる旅があったと推測しました。

 西日本の東征と同じ7年をかけた、驚くべき古代の旅を想像します。旅の毎日も、岩などの自然を先祖の御霊の依代として、感謝の御食を献じ豊作を祈る姿は人々の心を打ち、東国に多くの稲荷が残る結果となったのでしょう。

 その祈る姿は帰還兵により九州にも伝わり、現代の日本人の宗教観の形成に、つながっていったと思います。

 東国移住作戦の出発のベクトルが見つかりました。高取山と鷹取山の北向きのベクトルです。大和は新しい都づくりで手が離せないので、近江を出発点にし北陸に進んだ記録です。真北に設置してあります。九州から東征隊の後を追ってやってきた人たちは、河内や奈良に入らず京都、近江と進んだことが分かります。この時期、河内・大和で盛んに造られた庄内式土器も、ほとんど搬入されておらず、瀬戸内東部の土器が多く見つかります。三重県も同じ状況で、近江の土器が多く見つかります。太平洋側も近江を出発地としていたことが分かります。

 左図は東国の稲荷山をプロットし結んだものです。伏見稲荷をスタートに北陸を北上し、津軽半島北端の小泊から北海道に渡り国後島の東端に稲荷山を記録していました。択捉島にある大山は、祖父・大山津見神が国生みの際に、倭国の領域の境として名付けた山で、これを確認しに出向いたものと思われます。船も未発達なこの時代に女性の王がこのような旅を行い、それが記録されていたことに驚きます。警護する人たちも、まさに神と考えたのでしょう。帰還の経路の盛岡で女性らしい素晴らしい山容の山を見つけ、姫神山と名づけたのもうなづけます。

 この山の配置には、隠れた直線で経路以外のことも多く記録されていて、国後島の稲荷山と南三陸町の天王山と東那須野公園の稲荷山の直線は富士山に続いていました。境の不明確な千島列島の境を明らかにし、富士山を有する倭国の領域と定義したのでしょう。

 天王の表現は、神武以降に天皇と変化する以前の、倭国の王だった卑弥呼と台与のみが該当するので、ここでは東国に向かった台与こと豊受大神を意味すると思われます。

 帰還は津軽海峡の潮の流れが、日本海側からの一方通行なので、青森県の東海岸に上陸したものと思われます。また関東平野は茨城・千葉と南下した後、また栃木に北上し群馬・埼玉と反時計回りに巡って神奈川に入ったものと思われます。33歳で東征に出発した豊受大神もこの時、50歳に近い年齢になっていたと推測します。

 弥生後期の東北地方広くに、天王山式土器と呼ばれる北方要素の土器が波及し、統率された活動があったとされています。

 右図は「弥生後期天王山式土器成立期における地域間関係(石川日出志)」から借りた図で、初期様式の分布範囲を表しています。日本海側の砂山式が、最も早く北方要素が定着し、それが各地に広まったと指摘しています。豊受大神が日本海側を北上したことと、合致します。

 砂山式と名のついた砂山遺跡は村上市にあって、海岸にある稲荷山とごく近い距離の遺跡です。

 この統率された活動は、東征後の東国移住作戦を行う部隊の活動で、さらに北の開拓に移住者を案内したり、勧誘を行う作戦の結果と考えます。部隊は東北・北海道まで先行し開拓地の、広さや寒さや道筋など様々な情報を得て戻ってきて、富山平野や金沢平野の移住者を、さらに北方へ勧誘したのでしょう。発掘報告書によれば、集落はずれのキャンプサイトのような遺跡から出土していて、1軒々々を訪ね北への勧誘を行っていたたことがうかがえます。豊受大神は移住者の集落での激励もさりながら、移住支援部隊をも励ましたと思われます。部隊は勧誘のため天王山式土器をもって旅をしたためこの土器が、各地に波及しのでしょう。

 また勧誘しただけではだめで、道案内や旅の途中の食事や寝るところも準備しなければなりません。広い開拓地を少ない移住者でどのように開拓するか、指揮する必要があります。大変な作戦であり労働であったと推測します。

 天王山式土器は、栃木県と福島県の境の白河の関近くの天王山遺跡から出土した土器に、この名がついたものです。広い関東平野の勧誘活動の拠点と、移住者の更なる北への出発点となったところと考えます。ここへ豊受大神が帰還の途中で激励に訪れていて、天王山がなずけられたので天王山式土器の名が生まれたのでしょう。

 

 そこで、全国の天王山と天王地名を地図に拾ってみました。左図のように西日本にも見つかりますが、九州になく山口県から始まっているので、神武東征の山口出発から名付け始めたことが分かります。

 小さな山に名付けられていることが多く、後に古墳が築造されていたり、山頂部が削平され地名のみが残っているものもあります。今回の旅は、この天王の集落と天王山を訪ね、豊受大神が何故そこに行ったかを目の前の風景から想像したいと考えました。

 移住作戦は移住者の移動支援のみでなく、開拓地の開拓方法を計画立案し、入植者に説明し、稲作が可能になるまでの開墾など果てしない作業があります。豊受大神は、開拓地ごとに指導者を元気づけるためのご褒美を準備しました。西の東征途上で試作検討してきた、前方後方墳を墳墓とするよう許可を出したのです。

 図は全国の前方後方墳の分布図で、奈良より東に圧倒的に多いことが分かります。奈良より西は東国から帰還後築造したものでしょう。

 考古学では、前方後円墳と前方後方墳の混在理由を謎としています。上記のように移住部隊に許可したものが前方後方墳で、東征の戦闘部隊には前方後円墳が当てられたと考えれば、納得できます。東北の前方後方墳は、いずれもその遺跡群の中で最も古いことが分かっています。

 後から築造された前方後円墳は、豊受大神が東国から大和に帰還した後、神武に諮り奈良の都づくりに当たっていた戦闘部隊を東国の開拓増強のために差し向けるために許可したものと思われます。戦闘部隊の身分ごとに大きさを決めていて、埼玉、群馬、長野に多く見られる大きな将軍塚古墳は、戦闘部隊の将軍の位だったことが見えてきます。

 この旅では、この前方後方墳も訪ねて、墳墓築造位置や開拓したと思われる平野を見てみることにしました。

 図の左は移住作戦に参加した、九州の久留米が本拠地とされる久米の人達の集落です。右側は福岡平野の賀茂が本拠地と思われる、加茂・賀茂の人達の集落です。二つの分布はよく似ていて、男鹿半島付近が最北です。北東北の津軽平野は、このころ寒冷だったようで稲作の遺跡がないので、開拓の限界が見えてきます。

 今に残る久米や加茂の集落も訪ねてみたいと考えました。

 以上のように、神武東征を考古遺跡から検証する作業の中で、東北移住作戦があり豊受大神の「大いなる旅」が見えてきました。その痕跡となる前方後方墳や天王山、天王、久米などの集落も訪ね、稲荷の神の心に触れたいと考えたのです。古代人のどんな想いに触れることができたのでしょう。

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